『トランス脂肪酸』という言葉はご存知でしょうか

前回までのコラムに書いた、EPA、DHA、アラキドン酸などは必須脂肪酸というものに分類されます。必須脂肪酸とは、ヒトが体の中で合成する事が出来ない、すなわち生きてゆくためには食物から摂取する必要があるものです。

シス型・トランス型

自然界に存在する必須脂肪酸のほとんどは、脂肪酸の炭素鎖の二重結合の前後の水素原子が同じ側に存在する“シス型”の分子構造を持つ脂肪酸です。その水素原子が反対側についているものを“トランス型”の脂肪酸と呼びますが、自然界に存在するのはごく少数です。
われわれヒトの体の細胞膜を構成している脂肪酸はすべてシス型の脂肪酸であり、我々は必須脂肪酸のうちシス型のみを細胞合成には利用しています。

脂質の役割

我々が脂質を摂取する目的は、細胞膜合成だけではありません。脂質は他にも数多くの使用目的があります。免疫を高めたり、エネルギー源となったり、脂質は我々が生きて行くのに重要な物質であるため、我々人類は脂質を抽出し“油”の形で保存し、いつでも手軽に使用できる様にしたのです。
保存性の良さから言うと、油は動物性より植物性のものが圧倒的に優れていたため、地中海周辺諸国ではオリーブ油を中心とした植物油の製造が盛んになりました。

抽出法による違い

植物油の抽出は、昔は圧搾法、つまり果肉を絞ることで行っていました。今でも圧搾法による抽出は行われています。
しかし、現在主流となっているのは、果肉を化学薬品に漬け、加熱、融解させ、そこから油脂を回収するという科学的手法での抽出法です。その過程で、熱などによって一部の脂肪酸が、シス型からトランス型に変性します。
そのため、化学的に抽出したサラダ油などは、圧搾法の油に較べてトランス脂肪酸の含有量が多いのです。
つまり、同じ油でも抽出法によって身体への負担が大きく異なることになります。
しかし、多くの場合は食品原料の表示に際して油の種類は記載していても、その油の抽出法までは記載されてはいません。

人工のバター

1911年、高価な動物性油脂から造られるバターを何とか安価な植物油から造れないか、という事でマーガリンが発明されました。マーガリンは、油の構成成分である必須脂肪酸に人工的に水素を負荷する事によって作り出された人造のトランス脂肪酸を主たる構成成分とした
【人工のバター】です。
トランス脂肪酸はオリジナルのシス型の脂肪酸に較べて数十倍のバリエーションがあり得る(注1)ので、その中には様々な性質をもつものがあります。有利な性質をもつ脂肪酸を探すバリエーションが一気に増えた事になります。
また、トランス脂肪酸は、自然界の普遍的に存在するシス型の脂肪酸にはない有利な特性を数多く持っています。例えば、トランス脂肪酸は、酸化・変性しにくいという特性があります。揚げ油を繰り返し使う店舗などでは、揚げ油の中にトランス脂肪酸由来の油を入れる事によって油の持ちを飛躍的に高め、大幅なコスト低下に成功しました。
また、完成した天ぷら、ドーナツ、フレンチフライなどの揚げ物は、トランス脂肪酸を含有する事でいつまでもパリパリ、サクッとした感触が残り、商品のクオリティも上がります。一見、今までより高品質の商品が画期的な低価格で出来るのです。

トランス脂肪酸の普及

その後もトランス脂肪酸は、揚げ油やマーガリンだけではなく、ショートニングなどの形でパンや菓子に幅広く取り入れられています。
画期的に安く製造できるトランス脂肪酸入りのピーナッツバター(ピーナッツクリーム)はアメリカ人の食生活自体を変えてしまった程です(注2)。
バタークッキーを手作りした事がある方ならお判りと思いますが、バタークッキーを柔らかく作るのは至難の業です。高い原材料費をかけて悪戦苦闘してようやく完成。
しかし後日、クッキーをプレゼントする時には、完成時にくらべて固くなり、香りも変わってしまっている。こんな経験をした方も多いかと思います。しかし、これが本来のクッキーです。
それに対して、マーガリンやショートニングを豊富に使った、工場で作られたパンやクッキー、ケーキなどは、時間が経過しても柔らかさを保ち、香りも変わりません。

こうして、トランス脂肪酸を付加したパンやお菓子は、その圧倒的低価格と見かけ上の高品質に加え、大量生産が可能という側面もあり、瞬く間に市場を席巻して行きます。
気が付けば、我々の周りはトランス脂肪酸付加の食品があふれていたのです。『パンが食べられなければお菓子を食べれば良いのに』フランス革命時、フランス王妃マリーアントワネットが食べるパンにも事欠く民衆に対し語った言葉です。
マリーアントワネットのその発言はフランス人民の怒りを買い、彼女は処刑されます。フランス革命時にはパンにくらべて遥かに高価だったお菓子も、“トランス脂肪酸革命”後には桁違いに安価になりました。今の状況だったなら、『(お店で焼いている)パンやお米を食べられない庶民は、(トランス脂肪酸入りの)お菓子を食べれば良いのに』と言っても処刑される事はなかったでしょう。

植物由来の油は健康の切り札?

また、バターなどの動物性脂質に対して、マーガリンやショートニングには“植物由来の油”というヘルシーなイメージもあります。
第二次世界大戦後、肥満や高血圧、コレステロール高値などが健康に悪い事が次々に明らかになって行く時代、“植物油”は健康の切り札とみられていたのです。私も小学校時代は5年生で転校するまでは学校給食でした。学校給食には、真っ白に漂白されたふわふわの食パンとマーガリンが必ずついていました。
私はマーガリンが嫌いでした。家では絶対にバターしか出ません。マーガリンの特有の匂いが嫌だったのです。「マーガリンは体に良いから残さず食べましょう」と言われ、先生が見ている時だけは、嫌々マーガリンをパンに塗って食べたものです。

魔法の代償

トランス脂肪酸は、登場して数十年で世界の食文化を根底から変えました。(見かけ上の)高品質と圧倒的低価格。これにより中世ヨーロッパであったら貴族の食文化を世界中の人が楽しめるようになったのです。まさに『魔法の油』でした。
しかし、魔法は常に負の側面を持っています。魔法は“自然界のことわり”を乱し、思いがけない災いをもたらします。我々はやがて、トランス脂肪酸という魔法の代償を知る事となります。

秘密の解明

20世紀後半になると、電子顕微鏡が発達し、原子の配列など光学顕微鏡時代には観察不可能であった微細構造が明らかになります。それに伴い様々な研究が進みました。トランス脂肪酸の秘密の解明もその一つです。

もともとマーガリンが開発された頃は、たまたま発見された変性脂肪酸が有利な食品特性を持っていたため商品化された訳あり、分子構造などは後の研究で明らかにされたものです。当時は化学式のみしか判明していませんでした。「百聞は一見にしかず」ということわざがあります。
今までは構造式しか判ってはいませんでしたが、電子顕微鏡写真で我々はトランス脂肪酸の姿を目の当たりにします。自然界に存在する脂肪酸であるシス型の脂肪酸はきれいな直線状の炭素鎖を特徴とする姿をしていました。
それに対し、トランス脂肪酸の電子顕微鏡写真は、付加された水素原子の直前で大きくねじ曲がった炭素鎖を持つ、異形の構造をしていたのです。生体に必要な脂肪酸である必須脂肪酸をもとにして作られながら、全く見知らぬ貌(かお)の物質がそこにはありました。

さまざまな負の側面

その後も次々とトランス脂肪酸の負の側面が浮かび上がってきます。トランス脂肪酸は、自然界に存在するシス型の脂肪酸と基本構造が大きく異なるため、細胞膜の構成要素になりません。つまり“必須脂肪酸”から造られながら、生体に全く必要とされない脂肪酸だったのです。
細胞合成などに使用しない脂肪酸は、通常はエネルギーに変換され、使用されます。

ところが、ここでもトランス脂肪酸には問題が付きまといます。自然界に存在する脂肪酸はほとんどがシス型のため、トランス型の脂肪酸からエネルギーを取り出すという事は通常は行われない作業です。
それはヒトの生体維持機構にとっては大きな無理があったのです。そのため代謝系に負荷がかかり、HDLコレステロール低下、LDLコレステロール上昇、中性脂肪(トリグリセライド:TG)上昇という結果を招く事が判ってきました。

また、これらトランス脂肪酸大量摂取者におけるコレステロール異常症(脂質異常症)群の心筋梗塞の発症率・死亡率は、通常のコレステロール異常症(脂質異常症)の群の発症率・死亡率を上回るのではないか?との研究もあります。これが本当とすると、トランス脂肪酸にはまだまだ解明されていない有害作用がある可能性があります。

規制

現在、アメリカやヨーロッパでは、トランス脂肪酸の規制が本格化してきています。特にアメリカは、今まで多量のトランス脂肪酸を摂取してきた事もあり、危機感を持って対処しています。
日本でもトランス脂肪酸の規制が始まっていますが、今一つ危機意識が感じられません。
おそらく「日本は欧米に比べてトランス脂肪酸の摂取量が少ないはずである(注3)」、という思い込みによる油断です。たしかに伝統的な和食にはトランス脂肪酸が入り込む余地が少ないのは事実です。
しかし、我々は伝統的な和食のみを食べている訳ではありません。普段は工場で大量生産されたものやコンビニ弁当も食べるだろうし、たまにはファーストフードも利用します。

前回のコラムでも述べましたが、現代の日本の食生活は大きく変わりつつあります。トランス脂肪酸の入った菓子パンなどの消費量の伸びは目を見張るものがあります。
コンビニも若者から始まり、単身赴任者へ。そして老人、主婦にまで販路を拡大しつつあります。
実は私もコンビニ大好き人間です。ポンタカードなどは手放せません。その私でも、コンビニに並ぶ商品を見ていると、頻繁に食べる事が推奨されない商品があまりにも多い事に驚きます。そして、それらの商品を子供たちやお年寄りなどが日常的に食べるのかと思うと大きな不安を感じます。

ここで適切な対応をしなければ、この国は近い将来大変な事になるんじゃないかという不安が頭を離れません。

目指すべきところ

現在、大手コンビニチェーンや製菓メーカー、ファーストフードチェーンなどは続々と、脱トランス脂肪酸ないしは低トランス脂肪酸に取り組んでいます。これらの試みは充分評価するに値します。しかし、トランス脂肪酸を一般の脂質、特に飽和脂肪酸を増やす方向で置き換える事は、当然LDLコレステロールの上昇を招きます。これでは何のためのトランス脂肪酸対策なのかという事にもなりかねません。

我々が目指すべきは、本来はトランス脂肪酸が導入される以前の素朴な食生活のはずでした。ところが、現在我々が目指している方向は、「いかにしてトランス脂肪酸の便利さと安価な部分を他の油で代用するか」になっている様な気がします。これでは新たな体への害を招きかねません。

しかし、一度豊かな生活を知った人が元の質素な生活に戻るのが困難な様に、一度トランス脂肪酸の便利さを知った我々が、昔の素朴な食に回帰するのは難しいという事なのでしょうか。

トランス脂肪酸の発見と使用、それは決して開けてはならないパンドラの箱だったのかもしれません。

注1:18~20個の炭素鎖を骨格とする必須脂肪酸の二重結合の部位により、対応するトランス脂肪酸のバリエーションは異なりますが、数十種類に及ぶものもあります。
注2:一昔前のブルーカラー人達の昼食と言えば、日本では日の丸弁当、アメリカではピーナッツバターのサンドイッチといったところでしょうか。
注3:WHO(世界保健機構)は、トランス脂肪酸の摂取割合を総カロリーの1%未満にすべきとしています。アメリカではその比率は2.3%、日本は0.3%と発表されていました。しかし、日本のトランス脂肪酸の摂取量は、消費される植物油の量をベースに計算すると少なくともカロリー量の0.6%になるとも言われており、0.3%
という数値の信憑性および、日本人のトランス脂肪酸摂取量が少ないという前提自体に疑問を感じます。

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岡宮 裕 院長
1990年 杏林大学医学部 卒業 慶應義塾大学腎臓内分泌代謝内科に入局 横浜市立市民病院・静岡赤十字病院・練馬総合病院他 腎臓病・高血圧・糖尿病・血液内科やアレルギー疾患など内科全般の幅広い医療に従事。 代々木上原の吉田クリニックにおいてプラセンタ注射を使った胎盤療法等の様々な領域について研鑽を重ねる。 2009年 代官山パークサイドクリニック 開業 2011年 海外渡航前医療センター 開設

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